いまの中央銀行のような地位が確立されたのは十八世紀の後半で、歴史家たちは一七八○年、ノース卿がイングランド銀行の役割について議会で演説したときをもって、イングランド銀行が中央銀行としての地位を確立した時期としている。
イングランド銀行は、いっぽうでは英国政府の財政を支える銀行としての役割を担い、もういっぽうでは英国経済の「銀行の銀行」あるいは「金融経済の中心」としての役割を拡大してゆき、大英帝国の拡大と繁栄を支えた。
第一次世界大戦から第二次世界大戦にいたる時期も、民間の組織として留まったが国家的機関としての性格は強まっていった。
第二次世界大戦後の一九四六年には、労働党政権であるアトリー政権のもとで国営化され、ついに名実共に国家機関となった。
その後、イングランド銀行独立論が何度も台頭したが、一九九八年にイングランド銀行法が制定されイングランド銀行は、物価安定の維持と政府の経済政策支援をその任務とする機関として位置づけられている。
アメリカの連邦準備制度(FRS)は、モルガン銀行が主導して作られたすでに述べたように英国のイングランド銀行の設立は一六九四年だった。
スコットランド銀行は一六九五年、フランスの中央銀行であるフランス銀行は一八○○年、明治維新でようやく欧米型の経済に移行した日本でも日本銀行の設立は一八八二年。
ところが、現在、世界でもっとも影響力のあるアメリカの連邦準備制度は、なんと一九一三年になってからようやく設立されているのである。
その理由はいろいろあげられるが、アメリカは中央集権的な制度に対して、伝統的に警戒心が強かったというのが妥当な答えだろう。
アメリカ合衆国憲法を読んだことのある人は気が付いただろうが、最初に成立した憲法の核心部分には連邦政府の権限を制限する条項ばかりがならんでいる。
そのなかでも、とくに目立つのが中央政府の財政における制限である。
金融の世界においても、アメリカでは中央銀行が強大な権限をもつことに対して、警戒心と懐疑心がきわめて強かったのである。
それがなぜ一転して中央銀行設立へと向かったのか。
第一は、アメリカの経済が巨大になってしまい、景気変動に対して金融システムが十分に対応できなくなったこと。
第二に、中南米などとの貿易が増大してくると、決済をポンドで行なっていたのでは、せっかくの旨味をロンドンにさらわれてしまうこと。
第三に、一九○七年の金融恐慌が起こると、「最後の貸し手」である中央銀行がないアメリカの金融システムは脆弱に思われたことだった。
この一九○七年の恐慌のさい、取り付け騒ぎに悩んだアメリカの銀行家たちは、英国のイングランド銀行をモデルにした中央銀行の構想を立て始めた。
中心となったのは、ワスプ系の商業銀行経営者であるジョン・ピアモント・モルガンニ世だった。
いうまでもなく「ウォール街の帝王」といわれたモルガン家の当主であり、同家はメイフラワー号がアメリカに到着してから六年後に、英国のウェールズから移住してきた一族の子孫である。
アメリカの金融界が、連邦準備制度を作った理由もう少し、連邦準備制度の設立当時を振り返ってみよう。
景気が悪くなると銀行は損失を被ることもあって、貸出を控えるようになる。
その結果、ますます融資が減って経済が縮小してしまうことになる。
中央銀行があれば、景気後退のさいには金利を下げ、通貨供給量を上昇させて景気を刺激することができる。
興味深いことに、中央銀行がなかった時期のアメリカにおいて景気後退のさいに融資を増やし、少しでも景気の落ち込みを阻止しようとしていたのは、モルガン銀行などニューョークを中心に活動していた大手商業銀行だったといわれている。
もちろん、慈善事業などではなく、金融システム全体に影響がないようにするための自衛的行動だった。
このころ、モルガン銀行の当主はジョン・ピアモント・モルガン一世であり、ネルソン・オールドリッチ上院議員は、中央銀行の必要性を説く演説のなかで、「金融危機に直面したときに、いつもピアモント・モルガンがいるとは限らない」と述べたのは有名な話だ(ロン・チャーナウ「モルガン家』)・また、アメリカの金融業界にとって、「脱ロンドン」は悲願となっていた。
ドルが国際通貨として認められていなかったので、アメリカの企業が貿易を行なうさいに、決済につかう通貨はポンドであり、企業や銀行がニューョークで資金が不足するたび、資金調達に出かけていくのはロンドンだった。
これでは資金融資や手数料などの美味しいビジネスは、すべてロンドンの金融界に持って行かれてしまう。
もし、アメリカに中央銀行が存在しドルの信用が高まれば、これまでロンドンに吸い取られていた利益もニューョークに一戻ってくるのではないかと思われた。
アメリカの中央銀行設立には、ドルの国際化という期待も託されていた。
ジョン?ピァモント・モルガン父子に代表される大手銀行家にしてみれば、金融危機がおこるたびに身銭を切って金融システムの維持を図るのは、もう限界に来たという判断があったに違いない。
力のある銀行から資金を集めて、イングランド銀行のような「銀行の銀行」を立ち上げて危機に備えるのは、ここまで巨大になったアメリカの金融システムを支えるためには、ごく自然なことだったろう。
もちろん、一」の中央銀行構想は激しい反対に遭遇した。
また、連邦準備制度を設立して後も批判が絶えなかった。
さらには、連邦準備制度が恐慌のさいに行なった処置は、かえって恐慌を加速したという説を述べる有名な経済学者も存在する。
それほど、連邦準備制度および連邦準備制度理事会の議長には強大な権限が集中することになったのである。
こうしたアメリカ連邦準備制度による世界へのドル飛躍の意図が、IMFと世界銀行を設立するさいのアメリカの姿勢に反映されたことは想像に難くない。
IMFは為替相場の安定を図ることを主な目的に設立された機関であり、国際収支が悪化した国への融資や、各国の為替政策の監視を、その任務としている。
また、世界銀行は、開発途上国の支援が任務ということになっているが、いまや二つの機関の業務は重複する部分が多い。
一九四四年、IMF設立を決めるブレトン・ウッズ会議で、英国代表のジョン.M・ケインズとアメリカ代表のハリー・デクスター・ホワイトが激しい論争を繰り広げた。
ケインズは為替安定のための基金を設立するにあたり、融資にはそのための人工通貨「バンコール」が使われることを主張した。
これに対してホワイトは、アメリカの通貨であるドルをそのまま使用する案を提示した。
ケインズは、すでに英国のポンドが斜陽を迎えていることを知っていたので、アメリカの経済力がそのまま反映してしまう制度はどうにか回避したかった。
いつぽう、ホワイトが代表した立場は逆で、アメリカの力が十分に発揮できる仕組みが欲しかったのである。
ここには英国とアメリカとの「国益」の対立が見られる。
この二人に陰謀説が指摘するような、アメリカの富を掠め取る共謀があったわけではない。
実際、IMFの設立はアメリカの勢力をさらに増進し、英国の国益を後退させる結果となっているのである。
ただ、ホワイトはソ連の諜報員と接触しており、しかも「ハル・ノート」作成にも関与していた。
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